泉浩の父親、忠志さんはどんな人?「大間のマグロ漁師」としての素顔

2004年のアテネ五輪柔道男子90kg級で銀メダルに輝いた泉浩さん。

その活躍の裏には、常に父親である泉忠志さんの存在がありました。

ここでは、泉浩さんの原点ともいえる父・忠志さんの「大間のマグロ漁師」としての素顔に迫ります。

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父親の名前は泉忠志さん|青森県大間町で有名なマグロ漁師

泉浩さんの父親の名前は、泉忠志さんです。

忠志さんは、マグロの一本釣りで全国的に有名な青森県下北郡大間町で、長年マグロ漁師として生計を立てていました。

津軽海峡の荒波にもまれる厳しい環境で、船を持ちイカやマグロの漁に出る、まさに海の男でした。

泉浩さんが持つ不屈の精神力や強靭な足腰は、幼い頃に父・忠志さんの漁船に乗って鍛えられたものだと言われています。

「大間の男たるもの漁師」が口癖だった父の厳しさと愛情

泉忠志さんは、生まれた男の子は漁師にするという強い信念を持っていました。

その考えは「大間の男たるもの漁師」という言葉にも表れており、四男である泉浩さんにも当然のように漁師の道を期待していました。

泉浩さんが柔道の道に進むことを決めた際には反対するなど、厳しい一面もありましたが、その根底には息子を思う深い愛情がありました。

これまで一度も泉浩さんを褒めたことがなかったという忠志さんですが、その厳しさこそが、泉浩さんを世界のトップアスリートへと押し上げる原動力の一つとなったのです。

アテネ五輪で話題に!「マグロ一筋」Tシャツで応援した父の想い

アテネ五輪の際、泉浩さんの父親である忠志さんの姿は、その胸に刻まれた文字とともに日本中の注目を集めました。

忠志さんをはじめとする地元の応援団が着用していたのは、金色の文字で「マグロ一筋」と書かれたTシャツです。

このTシャツは、大間町の町おこしグループが作製したもので、忠志さんの応援姿がテレビに映し出されると注文が殺到し、大きな話題となりました。

泉浩さん本人は後に「(アリかナシでいえば)ナシかもしれない」と照れながら語っていますが、このTシャツには、息子の晴れ舞台を故郷の誇りと共に見守る、父親の熱い想いが込められていました。

泉浩と父親の「10年間の約束」とは?アテネ五輪までの感動秘話

泉浩さんと父・忠志さんの関係を語る上で欠かせないのが、柔道人生の始まりに交わされた「10年間の約束」です。

この約束が、後にアテネ五輪での快挙に繋がる感動的な物語の序章となりました。

「柔道か漁師か決めろ!」小学6年生で迫られた人生の選択

9人兄弟の8番目として生まれた泉浩さんは、もともと体が弱く泣き虫な少年でした。

それを見かねた父・忠志さんの勧めで柔道を始めると、すぐにその魅力に惹きつけられます。

しかし、小学校6年生の時、忠志さんは泉浩さんに「柔道か漁師か、はっきり決めろ!」と、人生を左右する大きな選択を迫りました。

大間の漁師の息子として生きるか、柔道家としての道を歩むか、少年・泉浩さんは大きな決断をしなければなりませんでした。

「10年でものにならなかったら漁師になる」父と交わした約束の全貌

悩んだ末、泉浩さんは父・忠志さんにこう伝えました。

泉浩さん

10年間、時間を下さい。それでモノにならなかったら、大間に帰ってきて漁師を継ぎます。

この「10年」という期間を区切りに柔の道を追求することを誓ったのです。

この約束を胸に、泉浩さんは小学校卒業と同時に親元を離れ、単身で上京。

古賀稔彦さんや吉田秀彦さんといった五輪金メダリストを輩出した名門私塾「講道学舎」に入門し、厳しい稽古に明け暮れる日々を送りました。

約束の10年目に掴んだアテネ五輪銀メダル!父がかけた言葉とは?

上京から10年目、明治大学4年生となった2004年、泉浩さんはアテネ五輪の日本代表の座を掴み取ります。

父・忠志さんとの約束の集大成となる大舞台で、泉浩さんは快進撃を見せ、見事に銀メダルを獲得しました。

試合後、これまで息子を褒めたことのなかった忠志さんは、報道陣を前に「銀の上には金がある。金を取ってからほめてやる」と厳しい言葉を口にしました。

しかし、続けて「漁なんていわない。柔道を続ければいい」と語り、この日、泉浩さんは初めて父親に柔道家として認められたのです。

亡き父の夢を追って…泉浩が柔道引退後に「魚市場」で働く理由

アテネ五輪での約束を果たした後も、泉浩さんの心の中には常に父・忠志さんの存在がありました。

競技引退後、泉浩さんが選んだのは意外にも「魚市場」で働くという道でした。

その決断の裏には、亡き父への熱い想いがありました。

父がテレビで語った夢「息子4人と漁船に乗りたかった」

アテネ五輪から4年後の北京五輪。

その代表が決まった際、父・忠志さんがテレビインタビューで「息子4人と漁船に乗るのが夢だった」と漏らしていたことを、泉浩さんは後から知りました。

自分の夢だけを追い続けてきた泉浩さんにとって、その一言は深く心に突き刺さり、競技引退後もずっと心残りとして残り続けました。

72歳で亡くなった父への心残り|なぜ泉浩は水産業の道を選んだのか

父・忠志さんは72歳でこの世を去りました。

父親の夢を叶えられなかったという想いを抱えていた泉浩さんは、東日本大震災を機に自身の人生を深く見つめ直します。

トップアスリートになれたのは、幼い頃に父の漁船で津軽海峡の荒波に鍛えられたおかげだと何度も思い返し、故郷への想いを強くしました。

そして、父と同じ水産業の世界で、父の夢を違う形で実現しようと決意したのです。

現在の勤務先は「大治水産」|大田市場で奮闘する泉浩の今

泉浩さんは2018年、鮮魚卸売会社である「大治水産」に就職し、夜明け前の大田市場で働いています。

現役時代を彷彿とさせる大きな体で場内を駆け回り、旬の魚を目利きして流通させるのが泉浩さんの仕事です。

泉浩さん

オヤジの夢を壊してしまったが、今は青森のうまい魚を全国の人に知ってもらうための仕掛け人になることが夢なんだ

と語る泉浩さん。

漁師とは違う立場から、故郷・青森の食文化に貢献するため、日々奮闘しています。

【FAQ】泉浩と父親に関するよくある質問

ここでは、泉浩さんとその父親である忠志さんについて、多くの人が疑問に思う点をQ&A形式で解説します。

泉浩の現在の活動は?柔道クラブの指導者や監督も務めている?

泉浩さんは現在、大田市場の「大治水産」で勤務する傍ら、柔道家としての活動も続けています。

慶應義塾中学校の柔道部で外部コーチを務めるほか、2024年4月1日にはエジプト柔道代表チームのヘッドコーチに就任し、2028年のロサンゼルス五輪を見据えた指導にあたっています。

魚のプロと柔道の指導者という、二足のわらじで活躍しています。

泉浩の家族構成は?妻は女優の末永遥さんで子供はいる?

泉浩さんは2014年2月22日に、女優の末永遥さんと結婚しました。

その後、2017年12月3日には第一子となる長男が誕生しています。

メディアに出演する際には、家族への愛情深い一面も見せています。

泉浩の詳しいプロフィール(経歴・戦績)を教えて

泉浩さんは1982年6月22日生まれ、青森県下北郡大間町の出身です。

講道学舎に入門後、世田谷学園高等学校、明治大学で活躍。

大学卒業後は旭化成に所属しました。柔道家としての主な戦績は、2004年アテネ五輪90kg級銀メダル、2005年世界柔道選手権大会90kg級金メダルなどです。

2009年には総合格闘家へ転身し、その後、レスリングにも挑戦するなど、多彩な経歴を持っています。

父・忠志さんとの絆が泉浩の人生の道標となっている

この記事では、柔道家・泉浩さんとその父親である忠志さんとの深い絆について解説しました。

二人の物語は、単なる親子関係を超えた、夢と約束、そして尊敬の念に満ちています。

父との約束がアテネ五輪銀メダルへの原動力となった

泉浩さんの柔道人生は、父・忠志さんと交わした「10年でものにならなかったら漁師になる」という約束から始まりました。

この約束があったからこそ、泉浩さんは厳しい稽古に耐え、約束の10年目という最高のタイミングでアテネ五輪の銀メダルという輝かしい結果を出すことができたのです。

父との約束は、泉浩さんにとって最大の原動力でした。

漁師ではない形で父の夢を継ぐ泉浩の挑戦は続く

柔道界を引退した泉浩さんは今、父と同じ水産の世界に身を置いています。

それは、生前に父・忠志さんが語った「息子と漁船に乗りたい」という夢を、自分なりの形で叶えるためです。

漁師としてではなく、青森の豊かな海の幸を全国に届ける「仕掛け人」として、泉浩さんは父の夢と故郷への想いを胸に、今日も新たな挑戦を続けています。

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