伝説の女優、鰐淵晴子さん。
ミステリアスな美しさと、スクリーンでの圧倒的な存在感は、今も多くの人の心に残っていますね。
そんな鰐淵晴子さんが、現在、とても素敵な暮らしをされていると話題なのをご存知でしたか?
80歳を迎え、新たな生活の舞台に選んだのは、自然豊かな山梨の地でした。 都会の喧騒を離れ、なぜ移住を決意されたのでしょうか。
そこには、55年ぶりに手にしたヴァイオリンへの熱い想いと、愛する娘さんとの新しい物語がありました。
この記事では、鰐淵晴子さんの現在の穏やかな生活にクローズアップします。オーストリア人のお母様を持つハーフとしての生い立ち、2度の結婚と夫、ハプスブルク家の末裔ともいわれる華やかな家系図、そして若い頃の輝かしいキャリアまでを紹介します。
山梨の静かな時間の中で、再びヴァイオリンの音色が
長年、映画界の第一線で輝きを放ち続けた鰐淵晴子さん。
鰐淵晴子さんが人生の新しいステージに選んだ場所が、山梨への移住でした。
豊かな自然に囲まれた穏やかな環境での一人暮らしは、鰐淵晴子さんに、自分自身と深く向き合う時間をもたらしてくれたようです。
55年ぶりの再会、ヴァイオリンとの新たな物語
山梨での穏やかな日々の中で、まるで奇跡のような出来事が起こります。
鰐淵晴子さんは、実に55年ぶりにヴァイオリンを奏で始めたのです。
かつて「天才少女」と日本中の注目を集めながらも、女優業に専念するため、長い間その手から離れていたヴァイオリンでした。

本当に美しいです。ヴァイオリンが似合いますね!
この芸術への回帰は、山梨の澄んだ空気が、鰐淵晴子さんの心に眠っていた情熱を呼び覚ましたかのようですね。
鰐淵晴子さんが弾くヴァイオリンの音色。
その一音一音には、若い頃の輝きと、人生の深みを増した現在の円熟味が溶け合っているに違いありません。
きっと聴く人の心を、強く、温かく揺さぶるのでしょうね。
若い頃の輝きと、ミステリアスな魅力の源泉
鰐淵晴子さんの物語は、戦後間もない1945年、防空壕の中で生を受けるという、とてもドラマチックなものでした。 国際的な背景と美しい容姿は、若い頃から多くの人々を魅了し続けました。
防空壕で生まれた「天才少女」
お父様は日本人のヴァイオリニスト、鰐淵賢舟さん。
お母様はオーストリア人のベルタさんです。
この国際的な家庭環境から、鰐淵晴子さんはハーフとして特別な存在感を放っていました。
お父様の手ほどきで、幼い頃からヴァイオリンの才能を大きく開花させます。
あっという間に「天才少女」としてデビューし、世間の注目を集めました。
『ノンちゃん雲に乗る』で国民的スターへ
鰐淵晴子さんの才能は、音楽だけにとどまりませんでした。
映画『ノンちゃん雲に乗る』で主役に抜擢されると、一躍、国民的なスターになります。
その可憐さと気品は「原節子さんの再来」とまで評されたほどです。
鰐淵晴子さんの独特のオーラは、単にハーフというだけでなく、当時の日本人がまだ知らない、洗練されたヨーロッパ文化の香りをまとっていたからかもしれません。
一人の表現者として、鰐淵晴子さんはいつもミステリアスなベールをまとい、人々を惹きつけて離しませんでした。
華麗なる家系図と二人の夫、波乱に満ちた人生
鰐淵晴子さんの背景には、とてもドラマチックな物語があります。
お母様の家系、そして二度の結婚は、鰐淵晴子さんの人生をより深いものにしていきました。
ハプスブルク家の血を引く母と芸術一家
鰐淵晴子さんを語る上で欠かせないのが、その華やかな家系図です。
お母様のベルタさんは、かつて広大な領土を誇ったヨーロッパの名門「ハプスブルク家」の末裔の一人だと言われています。
ハプスブルク家について
ハプスブルク家は、スイスの小さな貴族から始まり、約640年にわたってヨーロッパの広大な地域を支配した名門王家です。
最大の特徴は、「幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」という言葉に象徴される巧みな政略結婚です。
戦争ではなく婚姻によって領土を次々と拡大し、最盛期にはスペインやアメリカ大陸にまでおよぶ「太陽の沈まぬ帝国」を築き上げました。
その後、広大すぎる領土はオーストリア系とスペイン系に分裂。
オーストリア・ハプスブルク家では、女帝マリア・テレジアが国を再建し、その娘があのフランス王妃マリー・アントワネットとして有名です。
長くヨーロッパに君臨しましたが、第一次世界大戦に敗北し、1918年に帝国は解体。
これによりハプスブルク家の支配は終わりを告げました。帝国はなくなりましたが、その一族は現在も続いています。
芸術を愛し、激動の時代を生き抜いたご両親から受け継いだ血は、鰐淵晴子さんの人生に大きな影響を与えました。
二度の結婚と、表現者としての深化
鰐淵晴子さんの人生は、私生活においても波乱に満ちたものでした。
最初の夫は、服部時計店の御曹司である服部歊さんです。
服部時計店とは?【セイコーの原点】
服部時計店は、現在世界的に有名な時計メーカー「セイコーグループ」の原点となった会社。
1881年(明治14年)、創業者の服部金太郎が21歳の若さで東京・京橋に開業。当初は中古時計の買い取り、修繕、販売から事業をスタート。
その後、事業が拡大、1892年には時計を自社で製造するための工場「精工舎」を設立。
ここで国産初の腕時計「ローレル」などを開発し、日本の時計産業の礎を築いた。
銀座4丁目の角に建てられた時計塔は街のシンボルとなり、現在の和光本館へと受け継がれている。
服部時計店は、一軒の小さな店から始まり、日本のものづくりを牽引するグローバル企業「セイコー」へと発展した。
しかし、この結婚生活は長くは続きませんでした。
タッド若松さんは写真家。一人娘は鰐淵理沙さん。
その後、アメリカで出会ったタッド若松さんと二度目の結婚をします。
タッド若松さんが撮影した芸術性の高いヌード写真集は、大きな話題を呼びました。
この二番目の夫であるタッド若松さんとの間には、一人娘の理沙さんを授かります。
ですが、後に離婚という道を選びます。
二人の夫との出会いと別れ。
その一つ一つの経験が、鰐淵晴子さんを女優として、一人の女性として、より一層深みのある存在へと変えていったのでしょう。
母から娘へ、未来へ。山梨で紡がれる芸術の絆
鰐淵晴子さんの芸術を愛する心は、愛する一人娘の鰐淵理沙さんへと、確かに受け継がれています。
母娘共演で紡ぐ、新たなハーモニー
ソプラノ歌手としてドイツで学び、キャリアを積んだ理沙さん。
理沙さんもまた、お母様と同じく山梨に移住し、音楽活動を再開されています。
そして2025年4月、ついに母と娘は山梨の地で、初めての共演を果たしました。
鰐淵晴子さんが奏でるヴァイオリンの音色。
理沙さんの美しい歌声。
二つの音が重なり合った時、会場はきっと、この上なく温かい感動に包まれたことでしょう。
理沙さんのお子さんたち、つまり鰐淵晴子さんのお孫さんも音楽を始めたとのこと。
鰐淵家の家系図には、未来へと続く新しい才能のきらめきが、書き加えられようとしています。
鰐淵晴子さんが現在暮らす山梨の家は、ご自身の安らぎの場所であると同時に、芸術一家の新しい創造の拠点となっているのですね。
鰐淵晴子さんの物語は、まだ終わりません。 山梨の静けさの中で始まった新しいメロディは、これからも多くの人の心に、美しく、そして温かい希望の光を灯し続けてくれることでしょう。